〔あむばるわりあの会・資料室〕
『成蹊大学一般研究報告』第四三巻第四分冊(平成二十一年十月)より

折口信夫と台湾原住民研究

関口 浩

 折口信夫『古代研究(民俗学篇1)』に収められている論文「古代生活の研究」に、次のような一節がある。

 「私どもはまづ、古代文献から出発するであらう。さうして其註釈としては、なるべく後代までながらへてゐた、或は今も纔かに遺つてゐる「生活の古典」を利用してゆきたい。時としては、私どもと血族関係があり、或は長い隣人生活を続けて来たと見える民族のしきたり、又は現実生活と比べて、意義を知らうと思ふ。稀には「等しい境遇が、等しい生活及び伝承を生む」と言う信ずべき仮説の下(もと)に、かけ離れた国々の生活・しきたりを孕んだ心持ちから、暗示を受けようと考へてゐる」(折口全集 二巻、二八頁)(1)。

 これは、過去の「あまりに放漫な研究態度」にたいして、折口が新たに立てた古代研究の方法を自身ごく簡単に説明したものである。それは「生活の古典なるしきたり」すなわち民俗を参照するという方法であり、つまりは民俗学を補助学科とする方法である。

 日本における古代生活の真の姿を明らかにするために、まずわれわれは、記紀、万葉集のような「古代文献」の精読から出発すべきだが、そのさいわれわれ自身の「生活の古典なるしきたり」をその註釈として参照すべきである。ときとしては、われわれと「血族関係」があり、われわれと同系の言語をもちいる民族、あるいは「長い隣人生活を続けて来たと見える民族」、すなわちまず第一に沖繩の人々であるが、彼らのしきたり、または現実生活との比較が、われわれの古代生活の意義を明らかにするうえで助けとなるだろう。そして、まれには、「等しい境遇が、等しい生活及び伝承を生む」という信ずべき仮説のもとに、「かけ離れた国々」、たとえば西洋諸国におけるキリスト教徒や古代ギリシアの人々などの「生活・しきたり」をよく理解することによって、われわれ自身の古代生活についてなんらかの「暗示」を受けることができるだろう。

 われわれはこの論文で折口と台湾原住民研究(2)との関係について考察してみたいと思うが、台湾の原住民は右の方法論においては最後に言われている部類の民族に入るだろう。折口は二番目の部類に入る沖繩をテーマとする論文として、「琉球の宗教」、あるいは「沖繩に存する我が古代生活の残■(一)(二)」、「沖繩採訪記」などを書いているし、そのほかさまざまな論文のなかでも沖繩の民俗を参照している。これに対して台湾をテーマとしたまとまった論文はない。全集の索引を見てもわずかにほんの数箇所で触れられているにすぎない。『古代研究』の「追ひ書き」にも、沖繩への旅行において「古代日本の姿を見出した喜び」と「あいぬの詞曲ゆからと、其伝誦者なるゆからく」の存在を知ることによって「語部の生活を類推する、唯一の材料を得た」ことが語られるが、台湾についてはまったく何も語られていない。昭和十八年に発表された論文「古代日本文学に於ける南方要素」のなかには「琉球系統の島々を、わりに念を入れて調べまして、台湾の方の研究に踏み出さうと企てゝゐるばかりのところです」(折口全集、五巻、一二〇頁)という言葉があるが、実際にはこの後も台湾についての本格的な研究論文はついに書かれなかった。折口のテクストにおいて、台湾のことはまさに「まれに」取り上げられているにすぎないのである。

 かけ離れた民族についての理解が古代研究に有益たりうるのは、「等しい境遇が、等しい生活及び伝承を生む」という仮説が成り立つかぎりである。本論文では、折口がどのように台湾研究をみずからの古代研究に役立てたかという点を明らかにするとともに、折口にとって台湾原住民の生活がどのようなものであったか、それがどの程度において「等しい境遇」であったかを明らかにしてゆきたい。

 そしてまた、本論文は折口にとっての台湾研究の意義をあまりにも重くみる見方に対する批判をも試みたいと思う。偉大な思想の成立にあたっては大小さまざまな事柄の直接間接の影響があろうが、しかしながら、針のような小なることを棒のように大げさに言い立てることは、この場合も正しくない。それぞれの事柄ごとにその重要性について適切な評価をするということも学問研究にとっては大切なことと考える。

 台湾原住民の民俗と折口の古代研究との関係については研究者の間で早くから注目されており、次のような先行研究がある。池田彌三郎の「まれびと論――その形成と骨格」(一九七九年)(3)には折口の学問形成と台湾原住民研究との関連について重要な指摘がなされており、それついてはあらためて第一章の終わりの部分、そして第三章で触れたいと思う。折口が目にした資料を詳細に検討したものとしては、保坂達雄の「まれびとの成立――折口信夫と同時代――」(一九八三年)(4)がある。さらに、世紀が変わって、二つの論文が発表された。その一つは、安藤礼二の「神々の闘争――折口信夫論」(二〇〇二年)(5)であり、もう一つは、伊藤高雄の「折口信夫の国文学発生論――「異族」とまれびとをめぐって」(二〇〇二年)(6)である。また、論文ではないが、「討論・折口信夫の学問と思想」(一九七四年)(7)中の「柳田の疑惑とマレビトの出自」における、上田正昭、岡野弘彦、加藤守雄、そしてとりわけ鈴木満男の発言はその後の議論にある重要な方向づけを与えた。

 保坂論文以後、しばらく取り上げられることのなかったこの問題にあらためて注目したのは安藤礼二氏の功績である。安藤氏の論文は、文芸誌『群像』の新人賞を受賞し、さらにこれを収めた単行本が芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞し、版を重ねているとのことである。しかしながら、そのような高い評価にもかかわらず、この論文には見過ごしえない事実誤認や誤解が数多く見受けられることは残念である。この書の影響を案ずるがゆえに、本論文の第二章はすべてこの書への批判にあてた。

第一章 折口の読んだ台湾研究

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第二章 安藤礼二「神々の闘争――ホカヒビト論」における諸問題

 折口が台湾原住民研究をどのように読んだかという問題について、従来の研究はまれびと論の形成との関連でこれを取り上げてきた。それに対して安藤氏の論文「神々の闘争――ホカヒビト論」は、折口が台湾研究から得たものはほかひゞとの概念であるという。台湾原住民についての二つの調査報告書から折口が読みとったのは、強固な宗教的絆で結ばれ、他界への信仰を携え、自分たちの集団以外の者に対しては首狩りと戦争とを「魂の交流」として敢行する「盲目的に移動する」集団であり、それはその内部においては「絶対平等」、外部の者とは「絶対戦争」を戦うことを原理にするという。このような集団こそがほかひゞとの原像となった。そのように安藤氏は主張するのである。

 安藤氏の著書は、このように、これまでの折口解釈を根本から否定するような新説を提示しているのだが、そうした主張を裏付ける資料として安藤氏がもっとも多く依拠しているのが『蕃族調査報告書』と『番族慣習調査報告書』である。しかしながら、実際にこれらの資料にあたってみると、驚くべきことに、安藤氏の言うような事実を見出すことができないのである。そればかりか、むしろそこには安藤氏の主張とは正反対とも思えるような事実が記述されているのである。以下、参考資料を逐一引用しつつ、安藤氏の誤認や誤解のなかで、とくに折口解釈上重要と思われる論点について指摘していきたい。

 (1)「一所ニ定住スル農民ナリ」

 安藤氏は、台湾原住民のことを「盲目的に移動する無数の「集団」」であり、「「移動」の衝動」に突き動かされた人々であったという(安藤、一三頁、四九頁)。安藤氏は、折口が台湾原住民についての報告書を読んで注目したのはそのような集団であって、そこにホカヒビトの原像を見たのだ、と主張する。

 「「蕃族」のなかに見出さなければならないもの、それはなによりもホカヒビトの起源なのである」(安藤、二四頁)。「折口学の成立時には、まず、『蕃族調査報告書』の精読を通して、ホカヒビトの原像が生まれてきたのである」(安藤、二六頁)。(18)

 このことを立証するために安藤氏が提示した証拠はたった一つだけである。すなわち、昭和二十四年に行われた柳田との対談「日本人の神と霊魂の観念そのほか」のなかの、折口の次のような発言である。

 「台湾の『蕃族調査報告書』あれを見ました。それが散乱してゐた私の考へを綜合させた原因になつたと思ひます。村がだんだん移動していく。それを各詳細に言ひ伝へてゐる村々の話。また宗教的な自覚者があちらこちら歩いてゐる。どうしても、我々には、精神異常の甚しいものとしか思はれないのですが、それらが不思議にさうした部落から部落へ渡つて歩くことが認められてゐる。かういふ事実が、日本の国の早期の旅行にある暗示を与へてくれました」(折口全集、別巻三、五五二頁)。

 安藤氏は右に言われた移動する村を、たとえば「国文学の発生(第二稿)」の「叙事詩の撒布」「一 うかれびと」における次のような箇所に述べられたような「団体」のことと解しているのであろう。

 「亡命を、一二人又は一家の上にばかりある事と考へるのは、近世の事情に馴れ過ぎたのだ。戦国以前までは、尠くとも新知を開発する為に、と言ふ名で、沢山の家族団体を引き連れて数百里離れた地へ、本貫を棄てゝ移つた家々は、数へきれない。〔中略〕我国の戸籍の歴史の上で、今一度考へ直さねばならぬのは、団体亡命に関する件である。住みよい処を求める旅から、終には旅其事に生活の方便が開けて来て、巡遊が一つの生活様式となつて了ふ。彼等の持つて居る信仰が力を失うても、更に芸能が時代の興味から逸れない間、彼等の職業が一分化を遂げきる迄の間は、流民として漂れ歩いたのである」(折口全集、一巻、一一一頁以下)。

 安藤氏が台湾の「蕃族」のなかにほかひゞとの原像を見出すべきだというとき、見出されるべきはこのような移動する集団、「流民」であったろう。しかしながら、台湾原住民についての報告書のなかにそのような「流民」の存在を見出すことはできないのである。『番族慣習調査報告書』には、たとえばタイヤル族に関して次のように記されている。「たいやる族ハ最早水草ヲ追ヒテ各所ヲ漂泊スル遊民ニ非ズシテ、一所ニ定住スル農民ナリ」(慣習報告、一巻、八八頁)(19)。また、アミ族については次のような記述がある。「本族番民ハ既ニ農耕ノ時代ニ入リ、土地ヲ愛惜スル事深キヲ以テ、耕地ヲ委棄スル等ノコトハ絶體ニ其例ヲ見ズ」(慣習報告、二巻、三〇頁)。「蕃族」などというと狩猟採集により生活している石器時代の「原始人」のように思われるかもしれないが、台湾原住民はそのような人々ではない。土地を開墾して農地を拓き、そこで農業を営む「農民」なのである。彼らが主に生産するのは粟であるが、彼らの年中行事も「粟撒き祭」、「粟の収穫祭」など、農事に関わる祭が中心となる。

 このような民族には、当然のことながら父祖伝来の土地への強い執着がある。『番族慣習調査報告書』を見ると、土地所有にかんする諸々の権利について詳細に報告されている。村落により、土地が村民に共有される場合もあるし、頭人家がすべての土地を所有する場合もある。また、個人の所有が認められる場合も少なくない。いずれにせよ、土地所有権の観念が厳然として存在する。そうした観念のない遊牧民とは違うのである。台湾原住民には所有する土地を守っていこうとする強い意志がある。「土地を愛惜すること深きをもって、耕地を委棄するなどのことは絶対にその例を見ず」ということである。つまり、両報告書が記している台湾原住民は、安藤氏が言うような「盲目的に移動する無数の「集団」」、あるいは「定まった土地と直接的な生産に従事しない、文字通りの無産階級の人々」(安藤、一六三頁)ではないのである。彼らは、定まった土地に住みついて、農業に従事する人々であって、けっして「無産階級の人々」などではない。

 しかし、そうすると、さきの折口の言葉「村がだんだん移動していく。それを各詳細に言ひ伝へてゐる村々の話」はどう考えたらよいのだろうか。

 折口は『古代研究』においてうかれびとであった傀儡子(くゞつ)の生活と、ジプシーの生活とが、その微細な点に至るまでほとんど同じであるということを指摘している(折口全集、一巻、一〇九頁)。ジプシーのように旅から旅のうちに一生を過ごすのがうかれびとでありほかひゞとであるが、台湾原住民の口碑に語られた移動の歴史はけっしてそのような生活を語るものではない。移動の速度がまったく違うのである。

 たしかに両報告書を見ると「村がだんだん移動していく」ことを語る口碑が数多く記録されてはいる。しかしそれは何世代にもわたる非常に長い年月の間における幾度かの移住の記憶を神話的に物語ったものなのである。たとえば、本論文の第三章で触れることになる内分社が開かれたのは、「少クモ十二三代ニ遡ルコトヲ得ベシ」(慣習調査、五巻の一、一〇八頁)という。一世代二十年として計算しても、ほぼ二百五十年間、この村はその地にあり続けたということになる。また、『番族慣習調査報告書』第二巻には、「種族発展ニ要セシ時間推定ノ資料」として、アミ族馬太鞍社と太巴朗社という二つの村落の祖先が現在の地に定住して以来の二十四代の系譜を掲げている(慣習報告、二巻、七頁)。同じく、一世代二十年として計算すると、四百八十年間の定住と言うことになる。このように、台湾原住民は、幌馬車で移動するジプシーのような人々でもないし、組み立て式の住居をもって移動するモンゴルの遊牧民のような人々でもない。彼らは石や木材による半永久的な家屋を建ててそこで住むのである。両報告書を一読すれば、そうした住居の図面や写真が数多く収録されているのを見ることができる。

 ほかひゞとの移動は「旅」という表現が相応しい速度でなされるのだが、台湾原住民の口碑が語る「村の移動」は、数世代から数十世代の間でのこと、つまり数百年という時間のうちでのことである。一人の人間が一生の間に一度も移住しないことが珍しくないということになる。そういう意味では、両報告書を見るかぎり、村は動かないのであり、そこに「盲目的に移動する集団」を見出すことはできない。

 ところで、そもそも折口の言う「ほかひゞと」は、安藤氏の解するような人々なのだろうか。安藤氏はほかひゞとの原像を「盲目的に移動する集団」と捉えている。しかし、ほかひゞとのもっとも本質的なところはそういうことではないだろう。「国文学の発生」第二稿において、ほかひゞとに関して折口が繰り返し強調しているのは、それが「賤民」であったということだ。ほかひゞとにとってもっとも本質的なことは、土地に根ざした生業すなわち農業を原理とする村の秩序から疎外された者でありながら、それにもかかわらず、その秩序の外部から異質な者として再度村に関わりをもつ、ということであろう。ある村からみずから逃亡したか、あるいは追放された者が、別の村に客(まれびと)として一時的に滞在することが許され、饗応される――それは村人たちに来訪神を待望する信仰があるからなのだ。ほかひゞとの本質はこの点にある。ほかひゞとは、村の秩序の内部に居場所をもたない者としては蔑まれるが、同時に、外部から到来した客としては聖なる者と見なされる。すなわち、聖なる賤民なのである。村から村へと漂泊せざるをえないのは、そのように疎外された者でありながら、しかも祝言職あるいは芸能者としては村に依存する者だからなのであって、移動することそれ自体はほかひゞとであることの必須の条件ではない。たとえば、「摂津広田の西の宮」のくゞつなどはすでにそこに定住しているが、しかし彼らが一種のほかひゞとであることに変わりはない。村の秩序、そしてその延長線上にある律令体制や封建体制の国家、それとの緊張関係にあるということこそが、ほかひゞとにとってもっとも本質的な点なのである。移動という点にのみことさらに注目し、ほかひゞとを遊牧民のように考えて、村との緊張関係を顧慮しない安藤氏のほかひゞと理解は、その本質を捉えそこなっていると思われるのである。

 さて、それでは、台湾原住民についての両報告書のなかに、そのような、村の秩序から疎外された者であって、しかも村の外部から客(まれびと)として再度村に到来する聖なる賤民、そういう人々を読み取ることができるだろうか。両報告書全十六冊のどこを見ても、そういう人々を見出すことはできない。そこに記述されているのは、ただただ農耕民たちの生活であり、まさに農業を原理として、共に労働し、祭祀を行う村の秩序のみなのである。

 (2) 台湾原住民は海洋民族か?

 台湾は太平洋上に浮かぶほぼ九州ほどの大きさの島である。四方を海に囲まれた島というと、われわれは、つい、そこに住む人々のことをただちに海洋民族であろうと考えてしまいがちである。そのような先入観に安藤氏もとらわれているのではないだろうか。

 「彼ら〔台湾原住民〕は、語族的にはすべてがオーストロネシア語族に所属し、島に自生しその固有性をもっていたというよりは、フィリピン・インドネシアからマダガスカル、ハワイ、ニュージーランドといったインド洋西端から太平洋にかけての広大な地域にひろがる海洋民族の一員として考えた方がよい」(安藤、二二頁 強調関口)。

 安藤氏はこのように台湾原住民を「海洋民族の一員」ととらえる。論文の終わりの部分で、古代日本の海部族との関連をこのポイントによって主張し、台湾からの「海の遊牧民」の流れが古代の日本に達したとするのであるから、安藤氏の主張にとってこの特徴付けの意味は大きいと言うべきだろう。だが、はたしてこの主張は正当なものとして立証できるのだろうか。

 海洋民族の特徴といえば、航海技術と漁撈技術であろうが、台湾原住民のなかにそうした技術にすぐれた「海洋民族」の性格をもつ人々があったろうか。

 『蕃族調査報告書』と『番族慣習調査報告書』とを読むかぎり、そこにそのような人々を見出すことはできない。漁業について言えば、海浜に面した地域の村落で投網や釣りをするところがあっても、それは余暇の娯楽としてであって、生業といえるようなものではない。たとえば、アミ族について『番族慣習調査報告書』にはこう記されている。「管内、海浜ニ近キ番社ノ行フ海上漁猟ニハ、打網、張網、釣、ノ三種アリテ、曳網ノ如キハ未ダ行ハレズ、以上何レノ漁猟モ凡テ自家ノ食料ヲ獲ルヲ目的トシ、概シテ、祭典、休日、ニ娯楽トシテ社民共同又ハ各戸任意ニ行ヒ、之レヲ以テ稼業トナス者ヲミズ」(慣習報告、二巻、四四頁)。つまり、漁民と言えるような人々は居ないということである。そもそも、舟をもつ村落がほとんどないのである。「管内あみす族〔アミ族〕ハ未ダ特別ノ漁船ヲ有セズ」(慣習報告、二巻、四六頁)。わずかにパイワン族の「貍仔、クラル両社」に「小舟」のあることが報告されているにすぎない。「海上ノ平静ナル時、之ニ乗リ入江等ニ於テ網ヲ投ズ」とある(慣習報告、五巻の三、四一四頁)。外洋に出て、隣の島を目指せるような大型の船ではない。数え方にもよるが、四百とも五百ともいわれる原住民村落のうち、たった二つに「小舟」があると報告されているにすぎない。しかも、インドネシア、フィリピン、マレーシアなどの島嶼部でもちいられているアウトリガー・カヌーは、台湾原住民の村落にはなかったのである。

 両報告書の当時の台湾原住民には、自家の生計を立てる程度の漁撈技術をもつ者も、隣の島にゆく程度の航海技術をもつ者もいなかった。遠い昔、数千年前に台湾島にたどり着いた人々はあるいは高度な操船技術をもっていたのかもしれない。しかし、次第にそうした技術は忘れ去られてしまったのであろう。

 だが、まさにそれだからこそ、折口は台湾原住民に注目したのである。もし、オーストロネシア語族の言語を話す他の諸々の民族と同様の存在であったとしたら、台湾の原住民は折口の注意を引かなかったろう。というのは、次のような事情があるからだ。

 最近、分子人類学の方法が台湾研究にも採用され、注目すべき成果がもたらされている。たとえば、テリー・メルトンらの論文「アジアにおけるプロト=オーストロネシアンの原郷に対する遺伝学的証拠――台湾原住民におけるmtDNAと核DNAのバリエーション」(一九九八年)(20)、また林媽利らの論文「台湾原住諸集団の不均質性――先史モンゴロイド拡散とのありうべき関連性」(二〇〇〇年)(21)であるが、そうした研究によれば、台湾原住民は周辺地域の諸集団と長きにわたって交流をもたなかったということが明らかになってきている。

 これら二つの論文に関連して文化人類学者の山田仁史は次のように述べている。

 「私見によれば、メルトンらの研究結果の中で最も注目に値するのは、台湾の原住諸民族が他地域とは長期間にわたりかなりの程度、孤立していたという点である。この見解は、次の理由からさらに重要性を増す。第一に、このことはmtDNAの分析から分子人類学的に、つまり考古学のデータを援用せずとも言えることだからである。第二に、〔中略〕林らの論文でも同様の結論が出ているからである。第三に、私の専門である民族学・文化人類学の知識から言っても、このことは支持されるからである。つまり、日本統治以前の台湾原住諸民族は(漢民族の影響を除けば)牛も稲作耕作も持たなかった。ヒンズーやイスラムの影響もほとんど蒙っていなかったのであって、外部からの孤立はうなずかれるところなのである」(22)。

 さきに述べたように、オーストロネシア語族の諸民族の多くが外洋航海用のアウトリガー・カヌーを造り、操ることができたのに、台湾の原住民はそれをもたなかった。「死体化生型作物起源神話」や「杭上家屋」も、オーストロネシア語族の世界に広く見られるにもかかわらず、台湾ではほとんど欠如している。「東南アジア大陸部・島嶼部の両方、さらにマダカスカルにまで広がっているいわゆるマレー式ふいご」も、ほとんど見られない。周辺地域に広く普及しているものが台湾原住民のもとにないのは、彼らが外部との交流を長いあいだ断ってきたからだと考えられるのである。

 台湾原住民が他のオーストロネシア語族の諸民族と同様にアウトリガー・カヌーで大洋に乗り出して他の地域の集団とさかんに接触し、交流したならば、彼らもまたヒンズー教、イスラム教、キリスト教、仏教や道教など高文化の影響を受けたことだろう。しかし、それではそこに仏教伝来以前の古代日本の有様を探るためのヒントを求めることはできなかったろう。孤立していたがゆえに、台湾原住民の生活に非常に古い文化が遺されたのである。彼らが古代のタイムカプセルのような存在でありえたのは、彼らがまさに海に背を向けていたからにほかならない。

 ところで、安藤氏は台湾原住民が船をもちいて先島諸島へと移動していったことを暗示しようとしているのだろか。「日本人の起源について」と題してツォウ族に伝わる次のような伝説を紹介している。

 「今ノ如ク平地続キニアラズ山又山ト連リテ野獣モ多ク常ニ獲物モ多カリキ此所ニテ始メテ「マーヤ」(日本人)ニ会シ共ニ居ルコト数年一日「マーヤ」ハ我等他ニ行カントス供スルモノハ来レトテヤシュグヲ伴ヒ何所トモナク行カレタリ而シテ「マーヤ」ノ別ルルニ臨ミ弓ヲ取リ出シテ云ヒケラク我等今此所ヲ離レテ他ニ赴カントス何時再会スベキヤモ分カラ子[ネ]ト又ノ会フ日モアラバ其時ノ印ニトテ其弓ヲ中央ヨリ折リ自ラ本ノ方ヲ取リ末ノ方ヲヤシュグノ子孫ニ渡シケリ」(安藤、三五頁以下)。

 これについて安藤氏は次のように述べている。

 「この洗練された「他界」概念と霊魂観をもつ「蕃族」たちは、日本人の祖先たち(マヤ[マーヤ]の人々〔中略〕)と一緒に暮らしていたというのだ」(安藤、三七頁)。

 「マーヤ」とはすなわち「日本人の祖先たち」である、というのである。ところが、この「マーヤ」については別に小島由道による次のような考察が『番族慣習調査報告書』に記されている。

 「北つぉう番ノ祖先ガ古代新高山ノ附近及ビ嘉義方面ノ平野ニ於テ同住シタリシト伝フル所ノまあやハ、同番之ヲ我等日本人ノ祖先ナルベシト推断セリ。蓋シ是其容貌(特ニ顔容)性質(特ニ戦闘ニ勇悍ナル所)ノ自己ニ近似スル所アルニ因ルナルベシ。近頃余ハ北つぉう番トさいせっと族トヲ比較シ其体貌及ビ慣習ノ著ルシク相似タルヲ見、又さいせっとニ於テ人ヲ「マエヤ」ト云フ其音ガまあやト類似セルヨリ推シ、北つぉう番ガ北ニ向テ去リタリト云フまあやハ或ハ現時ノさいせっとト同族ニ非ザリシカヲ疑フ。又さいせっと族獅頭駅社土名ワルワルノ朱姓(たあい祭ノ主祭)ノ家ニハ先年マデ祖先ヨリ伝ハレル古キ弓矢ヲ有シ、神聖ノモノトシ他族ニ見スルヲ禁忌シタリシト聞ク。知ラズ此弓コソ其昔シ北つぉう番ト相別ルゝトキニ後代再会スルトキノ印ニトテ折テ両方ニ分ケタル弓ノ一片ニ非ザリシカ」(慣習報告、四巻、一三頁以下)。

 小島はツォウ族の伝説に語られる「マーヤ」は日本人ではなく、サイセット〔サイシャット〕族ではないかと推理し、その理由を明らかに示している。この推理には説得力があると思われる。しかし、安藤氏はこの部分を引用していないのである。この問題について馬淵東一は、台湾原住民の言葉で日本を意味する言葉、Zipung, Lipung, Ripung, Nipungがいずれも「マーヤ」と無関係であることを指摘して、こう書いている。「日本人が〔台湾領有直後〕始めてツオウ族に接したとき、彼らは日本人をマーヤ族の再来と思つたらしく、ツオウ族が日本人を指す称呼はMaya となっている」(23)。

 (3)「残虐性」の問題

 安藤氏は、「移動の衝動」ということに加えて、さらに「残虐性」という点において、台湾原住民と古代日本の人々との共通性を見ようとする。戦争と首狩りに明け暮れる台湾原住民における「残虐性」が、古代日本の万葉びとにも共通すると言うのである。だが、はたして、そのようなことが文献資料によって裏付けられるであろうか。この点に関して、まず、折口の説く「万葉びとの生活」を安藤氏がどのように理解しているかのを検討してみたい。

 『古代研究(国文学篇)』所収の「万葉人の生活」には「倭成す神の残虐」という節があり、次のように述べられている。

 「めとりのおほきみは、帝〔仁徳天皇〕を袖にした。はやふさわけに近づいた。二人を倉梯(くらはし)山に追ひ詰めて殺したのは、理想化せられた尭舜としては、いき方を異にしてゐると言わねばならぬ。〔中略〕
 やまとたけるは、無邪気な残虐性から、兄のおほうすを挫き殺した。併し雄略天皇程、此方面を素朴に現されたのは尠い。此等の方々の血のうちに、時々眼をあくすさのをが、さうさせるのである。すさのをの善悪に固定せぬ面影は、最よく雄略天皇に出て居る。彼の行為は、今日から見れば、善でも悪でもない。強ひて言はうなら否、万葉びとの倫理観からは、当然、倭なす神なるが故に、といふ条件の下に凡てが善事と解せられて居たのである」(折口全集、一巻、三一二頁)。

 安藤氏は、右に引用した部分を含む折口の論文「万葉びとの生活」を解釈して、次のように述べている。

 「「万葉びとの生活」(大正十一年一・二・五・七月発表、『全集』一所収)に描き出された古代人の姿は異様である。古代人にとっての理想は「神のように、神として」(「かむながら」)生きることである。この「かむながら」という同じ言葉を、のちに折口は「神道」の根本原理に据えるであろう。神へと限りなく接近していた古代の人々。しかもこの古代の「倭成す神」は単数ではなく複数であった。この神々は「善悪に固定せぬ」「無邪気な残虐性」をもち、お互いに血まみれの闘争を繰り返していた。その「残虐であり、猾智である所の倭なす神」のように生きる古代人こそ、現代人にはもはやもつことのできない「純粋な感情」を歌として表出することのできた、「瞬時も固定せぬ愛と憎しみ、神獣一如の姿」を帯びた「万葉びと」だったのである。神性と獣性は、古代において通底する。

 このような神秘的な戦争に明け暮れる倭成す神々と「万葉びと」の姿は、おそらく台湾の「蕃族」の姿と直結するものであろう。そして、この両者が結びつき、ホカヒビトの原初形態となったことはもはやほとんど確実なことである」(安藤、二六頁以下)。

 ここに安藤氏の説くところには、問われるべき点が少なくとも二つある。第一の点は、折口解釈として、倭成す神の「残虐性」を万葉びと一般に共通のものとしてよいのかという点である。この点が正当とされてはじめて、次の問題、すなわち万葉びとの「残虐性」を、戦争に明け暮れ、首狩りの習慣をもつ台湾原住民の残虐性に通ずるものと見なすことができるか、という問題に答えられるだろう。

 倭成す神の「残虐性」は万葉びと一般に共通のものなのだろうか。安藤氏が「この古代の「倭成す神」は単数ではなく複数であった」という場合、その「複数」のものを何と考えているのだろうか。「万葉びとの生活」の第二節の冒頭に「倭成す神は、はつ国治(シ)る人である。はつくにしろす・すめらみことの用語例に入る人が、ひと方にかぎらなかつたわけには、実はまだ此迄、明確な説明を聴かしてくれた人がいない」(折口全集、一巻、三〇九頁)とあるが、これにしたがえば、複数なのは「はつくにしろす・すめらみこと」のことである。

 なぜ、はつくにしろす・すめらみことの用語例に入る人が、ひと方に限らなかったか、それについては折口自身が別の論文「神道に現れた民族論理」のなかで次のように答えている。

 「神武天皇も、崇神天皇も、共に「肇国(はつくに)しろす天皇」である。〔・・・〕此も肇国の唱へ言があつて、その祝詞を唱へられたお方は、皆肇国しろす天皇なのであつた。其が其中でも、特に印象の深いお方だけの、固有名詞のやうになつて残るに至つたのである」(折口全集、三巻、一五七、一五八頁)。

 歴代天皇は、肇国の唱え言を唱えられることによって、みな「はつくにしろす・すめらみこと」になってしまう。「かむながら」の人になってしまう。そのようにして、なるほど肉体的に見れば複数の天皇が、みな「倭成す神」の資格を得るのである。

 しかし「倭成す神」であり、はつくにしろす・すめらみことであるような、「かむながら」の生き方ができる人は、折口の繰り返し述べているところによれば、ただ天皇か天皇に準ずる者のみにかぎられる。さきの引用文においても「倭成す神」の例に挙げられているのは、仁徳天皇、やまとたける、雄略天皇である。神ながらの生き方は、一般の民衆にはけっして許されることではなかった。「古代人の思考の基礎」の「三 惟神の道」には「神ながらの道は、主上としての道であつて、我々の道ではない」(折口全集、三巻、三八五頁)とある。昭和十年の「古事記の研究 二」には「「神ながら」という事は何かと申すと、之は間違ひなく例外なく言ふ事の出来るのは、天子様のなされることに附ける語であつたのです」(折口全集、別巻一、二七二頁)とある。さらに、折口はこうも書いている。「残虐な楽しみを喜ぶことを知つた昔びとにして見みれば、それの存分に出来る権能は、えらばれた唯一人に限つて許される資格と考へたことであろう」(折口全集、一巻、三一六頁)。つまり、「無邪気な残虐性」は天皇以外のすべての人に許されないということである。ほかひゞとはもちろんのこと、すべての人々に、それは禁じられているのであり、ただそれを物語において楽しむことのみが許されるにすぎない。このように、倭成す神が単数ではなく複数であったといっても、それに一般の民衆まで含めることはできないのである。

 要するにこういうことである。第一の問題、すなわち倭成す神の「残虐性」は万葉びと一般に共通のものであるか、という問いに対しては、折口解釈としてそれは不可能であるということだ。一般民衆の側に含めるべきほかひゞとのあり方に「倭成す神の残虐」を見ることも、やはりまったく不可能である。すると、第二の問題、すなわち万葉びとの「残虐性」が、戦争に明け暮れ、首狩りの習慣をもつ台湾原住民の残虐性に通ずるものであるのか、という問いに対しても、万葉びと一般に「残虐性」が許されず、彼らが残虐性をもたない以上、そのことは成り立ちえない、ということになる。

 (4)折口の霊魂観への影響はあったか?

 周知のように、折口の学問にとって、とりわけその宗教思想にとって、霊魂の問題は非常に大きい意義をもっている。

 さて、安藤氏は、台湾原住民における首狩り、戦争、狩猟、結婚がいずれも魂を取ることと考えられているとし、彼らのそうした霊魂観が折口に影響を与えたと主張する。はたしてそのようなことが言えるのだろうか。

 安藤氏は次のように述べている。

 「「出草」(首狩り)でさえ、そこでは「霊魂」をやりとりする「霊的な戦争」、一つの高度なコミュニケーションの様相を呈する。のちに折口が「コヒ」に与えた意味づけは、ここらあたりの記述に起源があるように思われる。「生者の魂を身にこひとる事は、恋愛・結婚の成立である。古代伝承には、女性と男性との争闘を、結婚の必須条件にして居た」(「国文学の発生」第四稿『全集』一・一五六)。あるいはもっと端的に「日本の結婚は戦争である」(『全集・ノート編』二・五五)」(安藤、四三頁以下)。「このように「蕃族」においては、結婚も戦争も狩猟も、ほとんど同じ言葉で、またほとんど同じ行為としてとらえられている。それらはすべて、なんらかのかたちでの霊的なコミュニケーションなのである。これらが、折口が「蕃族」から得た霊魂信仰の基盤である」(安藤、四八頁以下 強調関口)。

 たしかに、台湾原住民による首狩りや戦争に、敵の魂を取る、という意味合いがあったということはいえるだろう。そして折口も、古代の戦争や結婚において魂の問題が大きく関わっていることを指摘している。しかし、戦争と結婚とについての折口の考えには、呪言すなわち言葉を言いかけるということが決定的に重要な意味をもっている。折口は次のように書いている。

 「戦争も求婚も、元は一つの方法を採つた。魂の征服が遂げられゝば、女も従ひ、敵も降伏する。名のりが其方式である。呪言を唱へかけて争うた」(折口全集、一巻、一七二頁)。「求婚に随伴する名告りの式が、戦争開始の必須条件として後世まで残つた。此威霊同士の名告りに勝つか負けるかゞ、戦争全体の運命に関はるものと信じてゐたのだ」(折口全集、四巻、三二頁)。

 呪言を言いかけること、呪言を言い合うこと、そういう詞章精霊(ことだま)の争ひ、霊の争ひ、すなわちものあらそひが、戦争における主たる戦いであって、これに勝つことによって、敵の魂を征服すれば、すなわち敵の戦意を喪失させれば、実力の衝突にも当然勝利することになる。「だから、実戦は寧、」ということになるのである。結婚も相手の魂を征服するという点で戦争と同じであるから、同じ方法が有効ということになる。安藤氏の引用している折口のテクストの一節「生者の魂を身にこひとる事は、恋愛・結婚の成立である」も、名のり喚ばひによって相手の魂を獲得することを言っているのである。

 しかし、『番族慣習調査報告書』によれば、台湾原住民の首狩りにはそういう名のりはない。彼らの戦争においても名のりのようなものはない。そういう呪言を言いかけるということがないのである。「宣戦セシコトアルヲ聞カズ」(慣習報告、一巻、三七四頁)。「慣習上別ニ宣戦ノコトナク」(慣習報告、二巻、二六〇頁)とある。ただたんに鉄砲あるいは蛮刀でもって、敵を倒し、その首級を切り取ることがあるだけである。そういう仕方での魂の獲得が折口の霊魂観になにか影響を与えることがありえたろうか。なのるよばふということが重要な意義をもつ折口の霊魂観は、端的に古代日本の文献から得られたものだったろう。台湾原住民の習慣は、この場合には、直接的な関連はなかったと見るべきである。

 (5)国家との関係

 『神々の闘争 折口信夫論』は「折口信夫は「国家」に抗する作家である」(安藤、五頁)というテーゼをもって書き始められている。この論文における安藤氏の主要な関心の一つは国家論なのである。

 既述のように、もはや台湾原住民とほかひゞととはまったく別のものとして考えなければならない。それでは、それらがそれぞれ国家に対してどのような関係にあったのか、安藤氏の言うところを検討してみたい。

 まず、台湾原住民についてであるが、安藤氏が彼らの社会を紹介するにあたってその例として挙げているのは、タイヤル族である。安藤氏は、タイヤル族が霧社事件などで日本政府の理蕃政策に対して反乱を起こしたことに注目し、台湾原住民を「国家に抗するもの」と特徴付けている。この一見判りやすい断定には、しかし慎重に検討すべき問題がひそんでいると思われる。

 たとえば、人類学者・鈴木満男の論文に次のような一節がある。

 「高砂族の親日感情の実に強烈なものであることは、経験した者でないと分らないだろう。特に戦後流行した或る種の近代史の叙述方式に慣れて、日本人と高砂族との接触を霧社事件で代表させ得るように考えている人々には――。私も、昭和四四年に初めて台湾を訪れた時、人々の親日的なのに驚いて国立台湾大学の或る本省人の先生に話したところ、「いやいや、高砂族の親日はこんなもの〔漢族系住民の程度〕ではありませんよ」と告げられたことがある。その時はほとんど信じられなかったが、実際はそれ以上であった。

 その原因は興味ある問題だが、当時高砂族と日常接していたのが「蕃地」の警察官に限られていたことを考えると、警察官の――特に或る種のパーソナリティをもった警察官の――影響は重大であったと想像される」(24)。

 「戦後流行した或る種の近代史の叙述方式」に拘泥することなく、事柄を虚心に見るならば、国家権力の行使者にほかならない現地の警察官と台湾原住民とは、けっして抑圧する者と反抗する者という関係にのみあったわけではなく、むしろずっと親和的な関係にあったというのである。一義的に台湾原住民を国家に抗する者と規定するのは、事柄をあまりにも単純化しすぎてはいないだろうか。

 だがしかし、よりいっそう重要な問題は次のような点である。安藤氏は『番族慣習調査報告書』第一巻「たいやる族」から、「彼等ノ社会ニ於テハ各人悉ク平等ノ地位ニ立チ未ダ曾テ貴賤、貧富及ビ門閥ノ人為的階級ヲ発生シタルコトナシ〔以下略〕」(安藤、三八頁以下)という記述を引用して、これによって台湾原住民の社会を権力者もなく身分制もない「絶対平等」の「ユートピア」であると強く印象づけている――同書「家の組織」第三項には「奴婢」について報告されているが、奴婢のいる社会を「絶対平等」と言えるかという問題にはここでは触れないでおく――。このような叙述によって安藤氏は、国家たろうとしなかったことを台湾原住民社会一般の特徴として印象づけているのである。これは明らかに誤解を招く書き方である。というのも、台湾原住民はタイヤル族だけではないからだ。『番族慣習調査報告書』によれば、パイワン族、ルカイ族、ピユマ族などの社会は、明らかに一種の「国家」だからである。

 たとえば、パイワン族について『番族慣習調査報告書』には次のように記されている。

 「本族ニハ大小幾多ノ首領アリテ諸方ニ割拠シ各土地及部下ヲ有シテ一ノ社会的団体ヲ形成ス。本族ニハ未ダ此団体ヲ指称スベキ語ヲ有セズ。本報告ハ仮ニ之ヲ党ト称ス。党ハ頭人家ヲ中心トセル土地及民人ノ一団ナリ。〔中略〕党ハ其形コソ小ナレ実質ニ於テハ専制王国タルト同一ノ体型ヲ具備スルモノタリ。詳言スレバ(一)党ニハ一定ノ領域ト領民ト此両者ヲ統治スル世襲頭人家アリ。而シテ此統治権ハ頭人家ノ固有スル所ニ係リ、他ノ団体又ハ首領ノ委任ヨリ出デタルニ非ズ。即チ純然タル主権ヲ以テ目スベキモノタリ。(二)又其頭人家ノ領民及領土ニ対スル権力ハ強大ニシテ他ヨリ何等ノ制限ヲ受クルコトナク、其党治ニ関シテ為シタル行為ニ付テハ党民ニ対シテ何等ノ責任ヲ負ハズ。此両点ヨリ見テ党ハ一ノ専制君主国ナリト論ズルコトヲ得ベシ」(慣習報告、五巻の四、三頁 強調関口)。

 パイワン族の首領は、「専制君主」だというのである。両報告書を読むかぎり、台湾原住民が一般に国家たることを拒否したなどとは、けっして言えないのである。むしろ折口はこのような「王国」に、古代日本における天皇家を中心とした国のあり方との類似を見たのではないか、とも思えるのである。(25)

 さて、次に、ほかひゞとと国家との関係であるが、この関係はどのようなものであったろうか。安藤氏は言う。

 「ミコトモチとホカヒビト〔中略〕この二つの概念をその帰結までたどってゆくこと、すなわち折口思想の徹底化は、必然的に「国家」という概念そのものの廃絶を意味するであろう」(安藤、七頁)。

 ほんとうにそういうことになるのだろうか。ミコトモチ概念についてはとりあえず措くとして、ほかひゞとの概念を徹底化することが、国家との関係でどういう事態を結果するのか、ということを考えてみたい。

 折口の『古代研究(国文学篇)』に収められた「万葉集の解題」に次のような一節がある。

 「ほかひ人は、宗教を持つて歩くと同時に、歌をも持つて歩いた。而して、其が地方人の心を柔げ、歴史観を統一した。流浪して歩く乞食者(ホカヒビト)の力は、国家を組織づけるに大なる力を与えた」(折口全集、一巻、三三五頁 強調関口)。

 ほかひゞとは村々を巡り歩いて、「身に沁むような恋物語」を伝えることによって「粗野」な地方人の「石のような心」をうるおし、柔げた。命知らずの荒々しい心が、ほかひゞとの物語によって、しだいに取り除かれていった。そしてそれとともに、同じ物語が異なるさまざまな地方に伝えられることによって、広い地域にわたって歴史観の統一がなされた。そのようにして、ほかひゞとは、自覚せぬままに、古代国家の成立に寄与したというのである。

 すでに、祝言職あるいは芸能者としてのほかひゞとが、定住する農耕民たちの集団――すなわち村落、そしてその延長上にある国家――に依存するものであることを述べたが、そればかりかほかひゞとは国家の成立に対してある積極的な役割をさえ果したのである。このように、折口の説くほかひゞとは、その本質においては、けっして国家に抗する者ではないし、国家の概念を廃絶せしめるような者ではないのである。

第三章 パイワン族の五年祭 ――まれびと論への「暗示」

   ・ ・ ・ ・ ・ ・

(1) 「折口全集」は下記の略記である。『折口信夫全集』、折口信夫全集刊行会、一九九五―二〇〇二年、中央公論社。
(2) ここで「台湾原住民」というのは、台湾に漢民族が移住する以前から居住していた諸民族のうち、漢民族の影響を受けて固有の言語や習慣をほとんど失ってしまったいわゆる「平埔族」を除いたものを総称している。折口が目にした文献には「生蕃」あるいは「高砂族」と言われた人々であるが、本論文では現代の研究者が慣用する名称を用いることとする。
(3) 『池田彌三郎著作集』第七巻「折口信夫研究」、角川書店、一九七九年、所収。これは下記の文献を加筆・改題したものである。日本民俗文化大系第二巻『折口信夫――まれびと論』、講談社、一九七八年
(4) 慶応義塾大学国文学研究会編『折口信夫 まれびと論研究』(折口信夫没後三十年記念出版1)、桜楓社、一九八三年、所収。その後、加筆・改稿して、保坂達雄『神と巫女の古代伝承論』、岩田書院、二〇〇三年、所収。
(5) 安藤礼二『神々の闘争 折口信夫論』、講談社、二〇〇四年、所収。以下に同書から引用する場合、書名を「安藤」と略記し、それに頁数を附すこととする。
(6) 『國學院雜誌』第一〇三巻第一一号、二〇〇二年、所収。
(7) 谷川健一編『人と思想 折口信夫』、三一書房、一九七四年、所収。
  ・・・・・・
(18) 安藤氏は、まれびとほかひゞととを別個のものとして理解しているのだが、この点については伊藤高雄による次のような批判がある。「安藤論はマレビトの概念の獲得とホカヒビトの起源とを別個にとらえているようであるが、この両者の存在は折口の中で神話的・原型的に不可分に結びついており、切り離して理解することは難しい。ほかひゞとの実態は、折口の論理の中で神話的なまれびとの存在に支えられて始めて存在するからである」(前掲論文、七〇頁)。まことに適切な指摘である。
また、伊藤は、折口が「デュルケムらの社会学的な民族学」ではなく、「ヴィルヘルム・ヴントの民族心理学」を受容したということを、折口全集第三九巻所収の手帖「民族学」によって明確に立証しているが、このこともまた、名指しこそしていないが、折口がデュルケムの影響を強く受けたとする安藤説への鋭い批判となっている。
(19) 「慣習報告」は『番族慣習調査報告書』の略記である。『蕃族調査報告書』と『番族慣習調査報告書』の表記は、旧字体の漢字とカタカナを用いた旧かなとにより、句読点はないか、ごく少ししか打っていない。本論文では、旧字を新字に改め、適宜句読点を打ち、濁点のあるべきカタカナにはそれを補った。
(20) Melton, Terry et al; Genetic Evidence for the Proto-Austronesian Homeland in Asia: mtDNA and Nuclear DNA Variation in Taiwanese Aboriginal Tribes. American Journal of Human Genetics, 63, 1998: 1807-1823
(21) Lin, Marie et al; Heterogeneity of Taiwan’s Indigenous Population: Possible Relation to Prehistoric Mongoloid Dispersals, Tissue Antigens, 55, 2000: 1-9
(22) 山田仁人「台湾原住民に関する分子人類学の最近の動向 覚書」、『台湾原住民研究』第六号、二〇〇二年、二六頁
(23) 『馬淵東一著作集』第二巻、三一〇頁
(24) 鈴木満男『華麗島見聞記――東アジア政治人類学ノート』、思索社、一九七七年、五七頁
(25) パイワン族、ルカイ族におけるこのような首長家のあり方を、『蕃族調査報告書』、『番族慣習調査報告書』、『台湾高砂族系統所属の研究』を主な資料として解明した論文に、下記がある。紙村徹「台湾パイワン族、ルカイ族における首長家のレガリア ――神器伝承の意味論――」、『天理参考館報』9、一九九六年、所収。

二〇〇九年七月一三日

※ 上記は、関口氏が2009年3月に「あむばるわりあの会」において口頭発表された「折口信夫と台湾原住民研究」をもとに執筆された同題の論文から序章と第二章とを抜粋したものである。第一章については、近日中に、この部分のみ改訂・増補した論文が、あらためて学会誌に発表予定とのことである。

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